プロフィール

略歴

エピソード

著書

  • 昭和34年9月27日、京都市左京区北白川で生まれました。物心つく頃には福井に引っ越しました。昭和38年の福井大豪雪は今でもはっきり覚えています。家の一階部分がほぼ積雪で埋まり、屋根の傾斜でそり遊びができました。
  • その後、大阪府堺市の南端、浜寺に転居し、堺市立浜寺昭和小学校に入学。学校まで歩いて3分だったので、始業の予鈴チャイムが聞こえると走って駆け込んでいました。
  • 小学校3年の時に、大阪府高槻市に転居し、高槻市立五領小学校に転校。学校まで、40分の田舎道を集団登校しました。帰りは同級生たちと田んぼの中を遊びながら2時間くらいかけて帰る毎日でした。夏は近くの沢に自転車で水遊びに行きました。この地域は北摂と呼ばれ、「じゃんけん・ぽん」を「いんじゃん・ほい」というなど、大阪弁とも京都弁とも違う言葉でした。
  • 中学・高校は阪急電車と市電を乗り継いで、京都洛星中学・高等学校に通いました。片道1時間。中学1年から高校1年まで剣道部に所属。初段審査は、なんと毎年剣道高段者だけが参加する京都大会が行われる京都武徳殿でした。今思うと少年野球クラブの入部テストを甲子園でやるような話です。
  • 京都祇園会館という映画館にも良くみんなで行きました。自宅は、高槻でしたが、私にとって、町中へ出るというのは河原町に出ることで、友人との付き合いで完全に京都弁になりました。生まれも京都なので、京都人と称しています。
  • 1978年、東京大学入学とともに東京暮らしを始めました。大学では、「山の会」というサークルに参加。卒業後に登った山も含めて、深田久弥の日本百名山のうち、67山を制覇しています。百名山制覇はまだ諦めていませんが、残り、33山はなかなか登りにくい場所が多いので、時間的に難しいかもしれません。法学部に進学しましたが、山登りに忙しく、一年留年しました。
  • 1983年、住友商事に入社。車輛鋳鍛貿易部という部署の北米向け鉄道車輛の輸出プロジェクトを担当する課に配属されました。配属初日の仕事が、当時、住友商事が商社連合のリーダーとして国鉄と進めていたカルフォルニア新幹線建設計画に関する地元住民の反対運動の住友商事宛抗議レターの翻訳でした。この計画は翌年に米国側の資金難で頓挫しましたが、近年になって復活しており、日本の新幹線の輸出と聞くと感慨深いものがあります。
  • 翌年、米国内メーカー発掘のために、サンフランシスコからニューヨークまで5000kmを1ヶ月半かけてレンタカーで回り、町工場のような会社を100社近く訪ねました。英語には本当に苦労しましたが、日々の実戦で気後れはしなくなりました。
  • この頃、一か月の残業時間が200時間近いこともありましたが、全く苦にならず夢中で頑張ったものです。当時でも人事部にはいつも叱られていましたが、今では労働基準局が絶対に許さないでしょう。
  • 1986年に落書きだらけのニューヨーク地下鉄車輌を、新車同様に修理するプロジェクトを受注しました。プラザ合意後の円高で日本からの輸出が困難になったので現地化に取り組もうというものでした。その契約履行のため、ニューヨーク駐在となりました。ニューヨークと言っても、ニューヨーク州北部、マンハッタンから350マイル離れたエルマイラという小さい町です。米国屈指の凶悪犯を収容する連邦刑務所が3つある以外は何もないところで、マーク・トウェインが「トム・ソーヤの冒険」を書いた地です。そこでアメリカン・スチールの子会社の橋梁工場跡を改造して、車輌工場とし、部品の買付けから修理作業、検査まですべてを行いました。
  • テレビドラマ「大草原の小さな家」のような田舎での3年半はアメリカについての考え方を大きく変えました。ニューヨークやロサンジェルスのような大都会ばかりクローズアップされますが、アメリカの大半は大自然の田舎町でした。400輛の車輌を納入し、エルマイラの工場を閉鎖した後、ブルックリンで品質保証、遅延損害金交渉などの事後処理に当たりました。
  • 鉄道ビジネスも単にセールスだけでなく、製造にここまで関与すると、ひとかどの「鉄ちゃん」だと自負しています。
  • プロジェクトがすべて完了した後、ニューヨーク大学ロー・スクールに会社派遣で2年間留学させてもらいました。この間親しくなったアメリカ人学生や各国からの留学生とは今でも親しくつきあっています。当時、企業派遣の留学生がよくとっていた「独禁法」「特許法」と言ったコースはとらず、「ホワイト・カラー犯罪」とか「イスラム法」と言った変わったコースばかりとっていましたが、最近の様々な問題を理解する上で非常に役立っています。
  • その後、7年ぶりに、東京に戻り、法務部に異動となりました。企業法務を海外案件を中心に担当しました。社内のほとんどの営業部門の人たちと仕事をさせてもらい、外国政府や海外企業との契約交渉や訴訟を経験しました。
  • 1996年に中国北京駐在となり赴任しましたが、直後に、住友商事で銅先物取引巨額損失事件が発覚し、その後3年半、その対応を担当しました。英米規制当局との交渉、日本の捜査当局への協力、米国で起こされた膨大な数の訴訟対応、関与した欧米金融機関に対する損害請求など、会社の危機対応の最前線で実務に携わりました。世界金融の厳しさと、当時日本にはまだ広まっていなかったコンプライアンスの重要性を実感しました。
  • この時に、全面的に内部調査、訴訟対応を手伝ってくれたのが、後に働くことになるPaul, Weiss, Rifkind, Wharton & Garrisonという米国の大手法律事務所でした。米国のトップ中のトップと言える訴訟弁護士と世界規模の危機対応案件で一緒に仕事をしたのは貴重な経験です。
  • 2000年の夏に岳父の佐藤信二が総選挙で落選。再起を期すので手伝って欲しいということで、17年半勤めた住友商事を退職。岳父の政治活動を手伝いました。ビジネスとは全く違う世界に驚きの連続でした。2003年秋に無事、復活当選を果たしたので1年ほど議員会館で公設秘書を勤めました。
  • 2004年から、Paul, Weiss, Rifkind, Wharton & Garrisonの東京事務所でカウンセル(顧問)として働くことにしました。この事務所は、アイゼンハワー政権の閣僚経験者達や、JFKの補佐官だったTed Sorensenがいるなど、米国民主党中枢に近く、現オバマ政権の国土安全保障省長官も私が銅事件で一緒に仕事をしたパートナーです。
  • ここでは、日本企業や米国企業の様々な法律問題、M&A、独禁法、知的財産、マネーロンダリング、外国腐敗防止法などの訴訟案件に関与しました。日本企業もビジネスのグローバル化の中で、米国の法律問題に晒されることが増えています。グローバル企業のビジネス活動の最前線の動きを米国のトップ弁護士と共に共有したのは非常に大きな財産となりました。
  • 2008年から2年間、日本大学法科大学院で「国際取引法」の非常勤講師を勤めました。
  • また、2012年4月から2013年3月までの1年間、テレビ朝日の朝の情報番組「やじうまテレビ」にコメンテーターとして週1回出演しました。また、2013年4月から2015年11月まで、BS朝日「いま世界は」でコメンテーターを勤めました。
  • この間、2007年、2010年に参議院選挙に自民党比例代表候補として立候補しましたが、2回とも次々点に終わりました。
  • 2014年12月に、佐藤ゆかりさんが衆議院選挙に出馬されるのに伴い、繰り上げ当選となりました。